絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2013年3月正会員ゼミ「アメリカ絵本の黄金期」Ⅱモーリス・センダック  講師工藤左千夫

Date: 14/05/14 | Category: Essay, レポート | コメント »

NPO法人絵本・児童文学研究センターの2013年3月正会員ゼミ<「アメリカ絵本の黄金期」Ⅱモーリス・センダック 講師工藤左千夫>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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2012年度正会員ゼミはワンダ・ガアグに始まり、マージョリー・フラック、バージニア・リー・バートン、マリー・ホール・エッツと続いて、アメリカの絵本作家が特集されている。ワンダ・ガアグ、マージョリー・フラック、バージニア・リー・バートンらが絵本作家として正統派に分類され、アメリカの田園で暮らしていたのに対して、今回のゼミで紹介されるモーリス・センダックは、正統派には分類されず、ニューヨークという都会で生活している。

私がセンダックの絵本と出会ったのは、母親として子どもたちに絵本を読み聞かせるようになってからである。『かいじゅうたちのいるところ』は、子どもたちに読み聞かせを何度せがまれたか知れない。また、原作の“Where the Wild Things Are”は、英語の授業中の読み聞かせで、高校生たちに最も受ける絵本の一冊である。高校生たちも幼い子どもたちのように、絵本を食い入るように見つめてくれる。大人を対象にした読み聞かせの会でも同様だった。センダックの絵本は見る者のまなざしを釘付けにする。私自身も、『かいじゅうたちのいるところ』に限らず、『まどのそとのそのまたむこう』や『ミリー 天使にであった女の子のお話』など、センダックの絵本を読み終えた時、不思議なカタルシスが与えられる。読者のまなざしを釘づけにする絵本の魅力とは? また、読み終えた時に得られるカタルシスとは? センダックの作品とその背景に深く迫る今回のゼミを興味深く聴講した。

センダックは1928年ニューヨークのブルックリンに生まれた。両親はポーランド系ユダヤ人である。父親が即興の物語を語るのが上手で、ユダヤに伝わる古い物語をもとに即興の話をしてくれた。病弱だったため、孤独な少年時代を過ごしたセンダックにとって、幻想と神秘の世界への強い興味は幼いころの父親の即興物語にあると言われている。

高校卒業後、ウィンドウ・ディスプレーの仕事を始めたことがきっかけで絵の才能が認められ、挿し絵を書き始め、絵本の世界に入った。絵は美術館に通い、クレーン、コルデコットなど19世紀イギリスの挿絵画家の作品から独学で学んでいる。ルース・クラウスの作品の挿絵を描くことで頭角を現し、1950年代後半から絵本の創作も手掛けるようになった。

ゼミの冒頭で、センダックの作品の根っこにある”dumps”(子どもの憂うつ)について語られた。病弱で孤独な少年時代を過ごしたセンダック自らの憂うつとも重なる。その憂うつは、センダックの初期作品である『わたしたちもジャックもガイもみんなホームレス』(“We Are All in the Dumps with Jack and Guy”)の”Dumps”という原題にも使われている。マザーグースのrhymeの一節だ。子どもたちは憂うつを乗り越えるために現実から空想の世界へと羽を伸ばす。そこにセンダックのファンタジー(物語)が生まれるという工藤先生の着眼点がユニークだ。

センダックの作品は、『かいじゅうたちのいるところ』をはじめとして、『まよなかのだいどころ』など、大人の批判を多数浴びている。言葉づかいやイラスト上の子どもの裸体が問題とされた。しかし、センダックは絵本を創るに当たって、「子ども時代を生き抜く子どもたち」が最大の関心事であることを述べ、世の批判にひるまない。子どもの深層心理を洞察し、子どもの憂うつから発する想像の世界を描いているのだ。センダックは常に子どもの側にいる。読者の中の子どもに語りかける。イマジネーションや弾む心を失った大人たちには理解の届かない世界を描いている。センダックの絵本を読み終えた後のカタルシスは、こうしたセンダックのゆるぎない洞察力と絵本作家としての立ち位置にあるのだと確信した。

「哲学と芸術は苦悩する人間を描くもの」というニーチェの思想が引用され、さらに工藤先生の哲学的な分析が続く。センダックの作品世界に表現されえているペシミズムを、ニーチェの「ディオニュソス的ペシミズム」、つまり、『悲劇の誕生』で説かれた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつペシミズムに類似していると。センダックは、絵本の創作において、「今日の複雑な世界を生きる子どもたちが直面している諸問題」から目をそらさない。子ども時代が夢見心地であるという幻想などつゆ抱いていない。センダックの作品には常に「苦悩する子ども」がいて、不安や恐怖や寂しさを乗り越えるため、想像の世界に羽ばたいていく。子ども時代に独特の感情がしっかり描かれているのだ。大人になってセンダックに触れた私にとって、マックといっしょに怪獣たちと踊ることもミッキーといっしょに夜空を飛ぶことも、自分からかけ離れた遠いことのように思えていたが、センダックの作品世界にニーチェの思想を感受された工藤先生の解説によって、センダックの作品が芸術として身近に感じられるようになった。

カタルシスもそうだが、センダックの絵本から音楽が聴こえるような感覚を覚えていた。工藤先生の繊細で鋭いセンダック論に触れ、自分が何となく感じていたことをさらに確かめてみたくなり、ゼミを聴講した後、『センダックの絵本論』(岩波書店)を読んだ。冒頭で、まさにセンダックが「音楽を描く」ということを述べている。センダックが子どもの本の絵に欠くことのできないものと考えているのが、純粋な動きの精神、生命を吹き込む息、動きへの揺さぶりであり、それらを最もうまく表していることばとして、quicken(生命を与える)ということばを挙げる。また、その意味を「音楽的に発想する」と解説している。「音楽にはファンタジーを解き放つという独特な力がありますが・・・」とセンダックのことばが続く。センダックの絵本から音楽が聴こえるように感じていたのも、絵本を読み終えた後、解き放たれたような感覚を味わっていたのも、確かな感覚なのだとセンダックのことばから自分の感覚を信じていいんだよと教えられたようで、ほっとしている。このほっとする感覚こそ、センダックの作品の魅力ではないかと感じている。

子ども達のために描かれたセンダックの絵本の魅力を知り、大人としてほっとすると同時に、日本の大人の子どもたちへの在り方が悲しく思えてならない。子どもたちに体罰を与える教師たち、そして、子ども達を虐待している大人たちに、センダックの絵本を薦めたいと思った。「あなたたちの中にこそ、大人になりきれないで苦しんでいる子どもたちがいますよ。その子どもたちのためにセンダックを読んであげなさい。きっとほっとしますよ。手は子ども達と握手するためにあります。腕は子ども達を抱き締めるためにあります。その手で、その腕で子ども達を叩かず、抱きしめてあげてください」と伝えたい。大人たちから体罰を受け、虐待を受け苦しみ、孤独を味わっている子どもたちに、誰か、センダックの絵本を読んであげてくださいとも。教育現場でも、学力を高めることより、進学率を高めることより、もっと大切なことがあるのではないか。学校司書の設置と読書運動に真剣に取り組んでほしい。家庭でも、子ども達に良書を与え、親子で楽しんでほしい。良質の本と食事と心身共に安心できる環境が、今の子どもたちに最も求められていることではないかと思った。

(文責:吉村眞由美 NPO法人絵本・児童文学研究センター児童図書相談士1級)

 



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